東京の込み入った車群の隙間を緑色のバイクが走り抜ける。
「~♪」
鼻歌を歌いながら梨沙の服を買いに走る壱織は
部屋の鍵を閉め忘れていたことに未だ気付いていない
一方、壱織達の住むアパートの一室に硬直した空気が立ちこめる。
その原因はアパートの主である菅原 大樹…大家さんの恐面だろう。
昨夜巨大組織の一端と戦い、勝利した紅葉でさえまるで蛇に睨まれた蛙のように動けない。
彼女相手に生身でこれだけの迫力が出せるこの男は
壱織に三ヶ月分の家賃をごまかされている。
置き手紙にあった内容も今知られただろう。
紅葉達サイボーグも、ヘルメットに守られていない時に鈍器で殴られれば疑似的な痛みが脳に警告を発するようになっている。
かつてうけた大家さんの拳骨は鈍器の域に達していることも紅葉は知っている。
一触即発、梨沙にいたっては顔だけで涙目になってしまっている。
涙腺があれば、恐らく紅葉もそうなっている。
しかし、静寂は突然中断された。
きゅうぅ…
梨沙のお腹が鳴ってしまった。
梨沙も先ほど起床したばかりだった。
「ふうぅ…。」
胡座をかいていた大家さんはため息をつきながら立ち上がった。
生理的なものであれ、この空間に動きを与えてしまった事を理解した梨沙は必死で首を横に振る。
しかし大家さんは梨沙に向かって歩を進める。
足音が凄く重く聞こえるのは幻聴なのだろうか。
大家さんの手が梨沙の頭に延びる。
梨沙は反射的に目をつむった。
しかし大家さんの手は梨沙の頭をくしゃくしゃと撫で回しただけだった。
やがて大家さんは台所を向いて言った。
「飯作ってやる、食えるか?」
食卓に出されたのは三杯の野菜スープ。
普通に見て美味しそうな見事な作りである。
しかし梨沙はそれを前にしても匙を持とうとしない。
半年間得体のしれない物体を飲まされ続けた梨沙は何かを口に入れる事が恐怖になっているのかもしれない。
大家さんは腕を組んで見ている。
「なかなか食わねぇな…」
紅葉は一口掬ってのんでみせた。
「ほら、飲んでも大丈夫だから。」
と言っても紅葉には味覚は無く、成分表示と保有アミノ酸量表示が視界に映るだけであるが
暖かいと言うことだけは理解できた。
それを見て、梨沙はやっと恐る恐るスープを口に運ぶ。
大家さんが息を飲む。
「………!!」
梨沙の瞳が一瞬ではあるが初めて光を映した。
そして次々と匙が進むようになる。
大家さんはその様子を見て嬉しそうに岩のような顔を綻ばせた。
「おぉ食った食った、旨いか?」
…………こくり。
梨沙は小さく頷いた。
紅葉がこのアパートに来て一年、度々見かける大家さんの優しい笑顔は時に壱織を思い起こさせる。
彼がどのような形で自分達に関ったのか謎ではあるが
どんなに恐い顔で乱暴だろうと
彼は基本的に善人であると言う認識を紅葉は再確認した。
「家賃の話は、財布持ってる壱織が帰ってからだからな。」
…………。
スーパーで壱織が選んだのはオレンジ色のセーターと赤いチェックのスカート。
それらを持ってレジへ向かう。
「2800円になります。」
そう言われてコートのポケットを探ると、壱織は気付いた。
「す…すいません!
財布を忘れてしまったので、取ってきます!」
そう言って走っていった壱織を見送り、店員は預かった服をとりあえず袋に積めて次の客を招いた。
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